今年は戦後80年です。「シベリア抑留」では終戦を迎えたにもかかわらず、多くの人が極寒の地で労働を強いられ、命を落としました。

井手正人さんがシベリア抑留をつづった手記 「大変なところへ来てしまった。もう帰れないかもしれない。カチカチに凍った大地をつるはしで掘るのは苦しい」

 「ソビエト無銭旅行」。シベリア抑留をつづった手記です。書いたのは10年前に91歳で亡くなった愛媛県松山市の井手正人さんです。

 井手さんは終戦を旧満州で迎えた後、旧ソ連によってシベリアの地に強制的に連れていかれ、ダムの建設工事を強いられるなどマイナス40℃のシベリアの地で2年近くを過ごしました。

井手正人さんがシベリア抑留をつづった手記 「戦争は終わったのに、異郷の地で行方不明のまま、人生を終えるのかと思うとやりきれない思いがした」

 井手さんのようにシベリアなどに抑留された日本人は57万人余りとも言われ、そのうち、およそ5万5000人が命を落としたとされています。

 松山市の清水凄子さん(80)。

 父・濱田寅雄さんは、シベリアでの抑留中に命を落としました。

父をシベリア抑留で亡くす 清水凄子さん 「(Q.どんな父親だった?)一度も会えていない」 「父が出征するときに凄子という名前を付けてくれた。それが私の名前でうれしい。会ったこともないのなぜか恋しい。高齢になってもその気持ちは変わらない」

 遺骨はまだ見つかっていません。清水さんは3度、ロシアを訪れました。

清水凄子さん 「父の墓地がはっきり分からなくても一歩でも近づきたい。私の鼓動が父のところまで届くようにと、(ロシアの)土の上に手を置いた」

 寅雄さんと同じように極寒の地でただ生き抜くために耐え、命を落とした人々。その事実を知ってほしいと清水さんは5年前から子どもたちの前でシベリア抑留を伝えてきました。

清水凄子さん 「すべては日本に帰りたい、家族に会いたいという思いがあるからこそ頑張った。強制労働させられて、命からがらで、あす自分がどうなるか分からない立場で」