宮城県気仙沼市では、中高生が東日本大震災を後世に伝える語り部活動を行っています。高校時代に語り部を始め、社会人になった今でも経験を伝え続ける男性です。
津波で甚大な被害を受けた旧気仙沼向洋高校は、震災遺構として東日本大震災で何が起きたのかを後世に伝えています。こうした震災伝承施設への来訪者は2024年から2年連続で減少していて、担い手の高齢化も進み多くの施設や団体が継続の不安を抱えています。
次世代への継承が課題となる中で毎月、月命日の前後に中高生など若い世代による語り部活動が行われています。
「入って一番目に付くのがこの車だと思うんですけど、こちらの教室は地上から約8メートルの高さにあります。なのでこちらの車が8メートル持ち上がって、この教室に入ってきたということになります」
震災から15年、若い語り部たちに当時の記憶はありません。
気仙沼向洋高校2年佐藤憂奈さん「震災の時は2歳です。記憶が無いので伝えることの難しさが結構あって、大人の人に聞いたりもして自分なりに勉強して頑張ってます」
23歳の熊谷樹さんは、気仙沼向洋高校3年の時に語り部として活動し始め、社会人となった今でも休みの日には震災の記憶を伝えています。震災当時、樹さんは小学2年生で鮮明に記憶を残す最後の世代として、語り継ぐ責任を感じています。
熊谷樹さん「私よりも小さい子たちは経験はしてるんですけども、はっきり覚えてなかったりとか、そもそも生まれてないというような子たちが多いので。どんどん興味を持って挑戦して欲しいですし、自分も負けないようにいろんな知識を得ながら、後輩にもアドバイスをしながらですけども、この活動をもっと有意義なものにしていきたいなと思ってます」
樹さんは小学2年生の時に気仙沼市で被災し、自宅を津波に流されました。今は何もない場所が、震災発生まで家族で過ごした場所です。
熊谷樹さん「JR気仙沼線が走っているのが部屋の窓から見えたので、田んぼの方に出ていって手振ったりとか、そうすると汽笛で返してくれたりとか。家の2階部分だけ流されてきているところは見せてもらって、その周りに自家用車が3台ぐらいあったんですけど、ぐしゃぐしゃになった自家用車が点々とあってみたいな感じで、すごく衝撃は受けましたね」
地震発生の瞬間に友達の家で遊んでいた樹さんが真っ先に向かったのは、流される前の家でした。
熊谷樹さん「パニック状態になってしまって、自分の家に走って帰るというような行動をしたんですけど。ちょうど自宅の方から避難をして来た家族とばったり会って、家族が車とかで避難していたら行き違いになって、自分だけ家と一緒に流されてたのかなと思うとちょっとゾッとするところはありますね」
知らなければ命を失う、災害の恐ろしさを理解しました。
気仙沼市では2019年、震災遺構・伝承館のオープンに伴い階上中学校の生徒による語り部活動が始まり、翌年には気仙沼向洋高校でも語り部クラブが設立され、樹さんはリーダーを任されました。
樹さんが語り部クラブの活動で、岩手県釜石市にある慰霊碑を訪れた時の映像です。
「小学生を連れて避難する時の思いをもうちょっと詳しく教えてください」「小学生連れて逃げた時は、しょっちゅう避難訓練をしていたので、小学生を連れて逃げるということは普段から考えてたことだから何の疑いもなく」
熊谷樹さん(当時高校3年生)「伝えることによって何年後か災害が起こった時に未来の命が助かるということなので、ずっと語り継いでいく必要があるなと感じました」
樹さんは現在、宮城県登米市で働き気仙沼市の実家に語り部活動の度に帰っています。
父親熊谷隆さん「前の家の面影っていうか、記憶が残ってるのは多分樹ぐらいなんですよ。
長女と次男に関しては前の家の状態が、全く記憶ないと思いますよね」
震災当日、父親の隆さんは仕事で不在で家族を守ったのは祖父の清人さんでした。
母親熊谷直美さん「おじいさんがすごい剣幕で逃げるぞと言って、とにかく逃げろということで最低限の荷物を急いで持って」
清人さんは1960年、国内で142人が亡くなったチリ地震津波を経験しています。清人さんの指示で歩いて避難したことにより、運良く自宅に向かおうとしていた樹さんと合流することができました。
母親熊谷直美さん「樹はどこか安全な場所に行くだろうと思っていたいと思って、それだけを考えて。あの時おじいちゃんが騒いだのが分かったような気がしました。後から」
祖父の清人さんの被災した経験で命が救われ、樹さんはこれからも命を救うために自分の経験を語り継いでいきます。
熊谷樹さん「家族自体の生活を保ってくれたのは家族自身なので、そこは語り部をするにしても、これまでの生活もそうですけども、感謝の気持ちを忘れないでやっていきたい」