東日本大震災の津波で最愛の妻を亡くした元消防士の男性が語り部となり、講演は800回を超えました。語り部を続ける中で生き方が変わったと話します。

 震災から15年となった2026年3月11日に、海へと向かう男性がいました。
 佐藤誠悦さん「これ、亡き妻が大好きだった」
 この場所で亡くなった妻の厚子さんが愛したトルコキキョウの花言葉は、永遠の愛です。
 佐藤誠悦さん「生まれ変わったらば、もう一度結婚してくれとお話をしたいと思っています」

 元消防士の佐藤誠悦さん(73)は震災当時、宮城県の気仙沼消防署の指揮隊長でした。佐藤さんが厚子さんと出会ったのは20歳の時で、初めて姿を見た時に私のお嫁さんになる人だと直感したということです。
 佐藤誠悦さん「優しい笑顔でみんなに接してね。家族みんなが明るくなるような感じの女房でしたね」

 2011年3月11日。震災で発生した火災現場に駆け付け夜通し消火に当たった佐藤さんが
翌12日朝に消防署に戻って来ると、高台の高齢者施設で働いていた厚子さんが行方不明になったと伝えられました。

 厚子さんは、5日後に海岸近くで遺体で見つかりました。高台にいるから大丈夫と思い込んでいた佐藤さんに、なぜ逃げろと伝えられなかったのか後悔の念が押し寄せました。
 佐藤誠悦さん「お前を助けることができなくて申し訳ないと、何度も何度も涙を流しながら号泣しながら語り掛けてもね。何をしてもね。生き返ってこない」

 震災について2年間一切口にできなかった佐藤さんに転機が訪れたのは、厚子さんの三回忌でした。このままではいけないと決意し、集まってくれた人たちに厚子さんのことを語りました。
 佐藤誠悦さん「もう涙涙でしたね。女房のことを語る時は、涙で包まれてね」

 佐藤さんは、この日をきっかけに震災のことを語り始めました。
 佐藤誠悦さん「人を助けるためにとことん訓練を受けた人間です。でも、その人間が大切な人を助けることができなかった」
 辛い思いを話すことで、気持ちが晴れていくと感じました。
 佐藤誠悦さん「女房のことを語って震災のことを語るっていうことは、気持ちを吐き出すという感じで。自分のものを出すということは、自分自身が癒やされるということを知りましたね」

 佐藤さんの語りは聞く人の心を打ち、全国から依頼が来るようになります。アメリカで語る機会にも恵まれました。こうした中で、佐藤さんの人生観に変化が生まれます。
 佐藤誠悦さん「誰の命を守るか。自分の命を守ることです」
 以前は寡黙で他の人との交流も少なかった佐藤さんでしたが、語り部を通して多くの人と出会う中で人の輪が自分を支えてくれていることに気付きました。
 佐藤誠悦さん「人が人をつなぐ。人が人を助けるということが分かりました。この15年間で。ですから、自分は1人ではないということを知りましたね」

 震災から15年が過ぎ、佐藤さんの語り部活動に大きな変化が生じようとしています。震災当時小学3年生だった孫の葵さんが、語り部を始めることになりました。葵さんを人一倍かわいがってくれた厚子さんへの思いや佐藤さんの姿を見てきたことで、自分も語らねばと思うようになりました。
 佐藤葵さん「やっぱり語り継いでいかないと。どうしても誰も語らなくなっちゃう」

 2人はこの日、消防車などを製造する大手企業で新入社員を対象に講演するため大阪市を訪れました。葵さんにとって、初めての本格的な語り部です。
 初めに佐藤さんが、今も抱える葛藤について話しました。
 佐藤誠悦さん「大切な女房を守ることができなかった。多くの方々も亡くなった。プロの消防官として助けることができなかった」

 続いて葵さんがマイクを持ちました。
 佐藤葵さん「校庭に避難しました。3月11日、雪が降っていました。でも寒いと思わなかった。地割れしていくし、余震でガラスが揺れるし。それどころじゃなかった寒いとか暑いとか」

 葵さんと同世代の新入社員たちが耳を傾けていました。初めての語り部を無事に終えた葵さんに、佐藤さんも感無量です。
 佐藤誠悦さん「私も語りつないでいくけれども、いつかは終わる。でも葵がつなぎつないでいきたいと言う。それがきょうここでできたということは、最高でしたね」

 佐藤さんは海岸を訪れ、厚子さんに葵さんと一緒に語り部をしたことを報告しました。語り部をする中で生き方を学んだと話します。
 佐藤誠悦さん「人と人とのつながり。これが語り部の最も大切なところであるということを、東日本大震災15年でやっと知りました。ありがたいと思います」