3日に亡くなった長嶋茂雄さんのもとに、ニューヨークから緊急帰国した松井秀喜さん(50)が弔問に駆けつけました。

長嶋さんとの対面は、2時間以上におよびました。

松井秀喜さん 「(次女の)三奈さんが『2人きりでお話してください』と。2人きりで、いろんな思い出を呼び起こしながら、ずっと過ごしていました。一番は、感謝だけです。監督との出会い、縁がなければ、松井秀喜という野球選手は、まったく違った野球人生を送ったと思うんですよね。あのとき、ドラフトのとき、私を引いてくださった。まず、そのスタートのことを思い浮かべて」

長嶋さんと松井さん、“師匠と弟子”の物語は、ドラフト1位で読売巨人軍に入団したところから始まりました。

松井秀喜さん 「本当に、私は幸せ者で、長嶋監督といろんな時間を共有させてもらいました。そのとき、そのときの思い出はありますけど、やっぱり素振りで…会話したといいますかね。素振りを通じて、野球選手としての大事な部分を授けてくださった」

長嶋さんも、松井さんの入団当時をこう振り返ったことがありました。

長嶋茂雄さん(2013年 国民栄誉賞受賞会見 当時77) 「最初に入った1年目のときから、すごく印象に残っています。スイングを作ると『1000日計画』でやって。あの印象が非常に強いです」

監督人生をかけた1000日計画。巨人軍の、ひいては球界を代表する4番バッターにするため、長嶋さんは、自室や遠征先のホテルに松井さんを呼ぶこともあり、マンツーマンで素振りをしていたといいます。

松井秀喜さん(去年5月 当時49) 「監督に、いつも素振りを見てもらって。スイングをしたら、空気を切る音がする。『ピュッ』『ブン』その音を聞き分けていた。いいスイング、悪いスイングを音で聞き分けていた。監督が『今のはいい音だ』『これはダメだ』とか。それをずっとやって、自分でもわかるようになった。“短くて高い音”がいいんですよ。だから『ブン』じゃなくて、『ピュッ』みたいなイメージ」

長嶋さんの独特な練習方法で、松井さんは成長を続けていきました。 1996年、入団4年目に松井さんは38本塁打を記録。“メークドラマ”でリーグ優勝を果たす原動力となり、初のMVPにも輝きました。

それは、ニューヨーク・ヤンキースの主軸として活躍しているとき続きました。

松井秀喜さん(去年5月 当時49) 「あまり結果出ていなかったとき、ニューヨークのホテルで素振りをしたんです。『バット持って来い』と言われて、監督が泊っているニューヨークのホテル行きました」

日米通算507本塁打。そして、ワールドシリーズのMVPなど輝かしい実績は、この2人以外、誰も立ち入ることを許されない空間から生み出されていました。

松井秀喜さん 「松井秀喜という野球選手において、最も大切なことを授けてくださいました。私の中では、一番の幸運でもあり、一番、感謝している部分。(Q.どう長嶋さんの遺志を受け継ぐ)私に、たくさんのことを授けてくださいましたので、今後、どういう形で次の世代に継承していくか、はっきりとした形は見えませんけど、長嶋監督と、生前、約束したこともありますので、ここでは、お話することはできませんけど、その約束を果たしたいと思っています」