交通事故で8歳の兄を亡くした妹は当時、母親のお腹の中にいて兄に会ったことはありません。「自分も遺族と呼んでいいのか」母親にも言えなかった胸の内を、初めて語りました。

 佐藤早織さん「何かついこの間のことのようで。でも私、ちょうどお腹に子どもがいたので、この子がもう社会人になって働いてると思うと、やっぱり時間は相当経ってるんだなと思います」

 2000年7月7日に交通事故で8歳の息子を亡くした佐藤早織さん。当時小学3年生だった息子の翔樹くんは、登校中に信号無視の大型クレーン車にはねられ亡くなりました。交通事故から7カ月後に生まれた娘の裕菜さん(25)は現在、仙台市にある総合病院で救命救急センターの看護師として働いています。

 佐藤早織さん「(息子は)すごくひょうきんで、いつもおどけてて、周りを笑わせてくれるような子でした」
 兄に会ったことはなくても、裕菜さんの暮らしの中にはいつも兄の存在がありました。
 佐藤早織さん「ご飯食べる時もお菓子食べる時もちゃんと人数分、翔樹の分を数えてくれてあげてましたね」

 幼い頃は兄の死をよく理解できなかった裕菜さんは、成長するにつれて兄の死を意識するようになりました。
 佐藤裕菜さん「お兄ちゃんは9歳になれなかったから、自分も同じぐらいに死んじゃうのかなって思っていて」

 息子を亡くした早織さんは、同じように大切な人を亡くした遺族とつながり、交通安全を訴える活動を続けてきました。
 7月、早織さんは被害者や遺族の集いを宮城県で初めてと開催しました。事件や事故で大切な人を亡くした人が、それぞれの経験を語り合う場です。

 運営メンバーの1人として携わった娘の裕菜さんはこの日、集まった人たちを前に兄への思いを初めて語ります。
 佐藤裕菜さん「原稿を考えている時も、気持ちがこみ上げてくるものがあって、ちゃんとしゃべれるかなっていうのが一番心配なんですけど」
 佐藤早織さん「普段私にも話できないことも話すかもみたいに言っていたので、すごいドキドキです」

 佐藤裕菜さん「初めて多くの方の前で兄についてお話するので、すごく緊張しているんですけれど聞いていただけるとうれしいです」
 会ったことがない兄を身近に感じながら育ってきた日々を語りました。兄が使うはずだったリコーダーや習字セットについて。
 佐藤裕菜さん「兄が使えなかった分は自分が使うんだと言って使っていましたが、きっと翔樹が喜んでくれているよと母が喜んでくれていることが一番の理由でした」

 成長するにつれて、兄の存在を周囲にどのように伝えるのか悩むようにもなりました。
 佐藤裕菜さん「兄弟は何人、という質問が一番苦手でした。深掘りされたくない気持ちから、兄を抜いた兄弟の人数を答えるようになりました」
 「兄の話につながることはなくなりましたが、兄の存在を消してしまったようで、自分は何てひどい妹なんだろうと感じることがありました」
 「私は自分を遺族と呼んでいいのだろうかと、ずっと引っ掛かってきました。兄に対して私は何1つもしてあげられたことがない。ずっとそう思って、兄のことを話すことも自分が遺族だということも避けてきました」
 「私は兄の死の当時を経験してはいませんが、兄が亡くなった後の生活の中を生きてきました。成長するたびに兄の存在を考え、人との関わりの中でどのように伝えればいいのだろうと悩んできました。その経験もまた、残されたきょうだいの1つの姿なのではないかと今では思っています。私は兄との思い出はありません。でも兄は、私の人生の一部です」

 佐藤裕菜さん「もしかしたら私が辛いと思っていたということで、お母さんのことを傷つけちゃうかなっていうこともすごくあったので。ただ、今日は言いたいこと何でも言っていいよって言われてたので、正直に言えました」
 母親の早織さんは、娘が抱えてきたことを初めて知りました。
 佐藤早織さん「そんなつらい思いをしながらも、私に今までずっと何年も接してきたんだと思ったら、それがなんかすごいつらくて。これから、きちんと何でも話し合えるように、またちょっと心を入れ替えたいなって思っています」
 佐藤裕菜さん「私の話を聞いた感想を初めて聞いて、伝わって良かったなと思って本当に。別にお母さんのせいじゃないです」

 8月20日、2人は広瀬川で開催された灯ろう流しに参加しました。裕菜さんが灯ろうに込めた願いは「事件・事故がなくなりますように」。
 佐藤早織さん「なくならないけど、なくなってほしいから。同じ思いする人が1人でも減るように活動を頑張っていきたい」
 佐藤裕菜さん「もう少し自分にもできることを見つけていけたらなと」