太平洋戦争中、特攻機の整備にあたっていた男性が、終戦後につくったのは、幼稚園でした。戦争中、命を救われた上官の言葉が支えとなりました。

三田村鳳治さん(103) 「あぁそうか、俺たちはもう二度とここへは帰れないんだと」

 声を詰まらせて当時を振り返るのは、お寺の住職をしていた三田村鳳治さんです。

 戦闘機で出撃する仲間たちを見送った整備兵としての体験を、103歳になった今も伝えています。

「(特攻機の通信が)『トゥトゥートゥトゥ』って聞こえてくるんですよね。『トゥトゥートゥトゥ』は、まだ敵艦に見つかってない。そのうちにその通信が『トゥトゥートゥトゥ』が『ツーーーーーー』といったきり流れなくなる。そのうちに皆突っ込んじゃうか、あるいはやられちゃうか、どっちかだった。いや本当に悲しかったね」

 特攻機を護衛する役割の戦闘機も命懸けでした。飛び立つ直前、ある少尉は、家族への想いを口にしました。

「『おい三田村、かあちゃん(妻)に会いたいよ』って言ったのが耳に残っている。結局は死んじゃったけどね。戦争が終わってから戦友会の時に奥さんにも会った。(当時)おなかの中にいた男の子は立派になっていて、働いていた。相当つらかったな」

 視力が悪かった三田村さんは、整備担当として、三重県鈴鹿市や、宮崎県都城市、鹿児島県知覧町などの飛行場に配属され、特攻機などの整備を担いました。

「燃料タンクを降ろして、そこに爆弾250キロ積む。皆、そうやって死んでいった。かわいそうだったな」

 当時、大学2年生だった三田村さんは、文科系の学生が徴集された「学徒出陣」により学問の道を諦め、入隊せざるを得ませんでした。

「『生等もとより生還を期せず』(※私たちは生きて帰るつもりはない)と東大生が読んでたよ。もうこれは俺たちは生きて帰れないんだなと」

 時に出撃しても故障で戻ってくる機体があったといいます。そうした場合には整備が叱責(しっせき)の的になりました。

「(整備担当として)散々殴られて。そんな時に(操縦者から)『おい三田村、助かったぞ』また(特攻に)出て、結局死ぬわけですよ。たった2日間でも帰ってきて生きられることがうれしかった。いまだに覚えているよ」

 三田村さんは、指示に背き自身の判断で、往復分の燃料を入れていました。

「特攻というのは、勝っても負けても帰しちゃいけないんだよ。だから燃料タンクに半分って言われても、僕はいつもいっぱい入れていた。『(燃料は)片道でいい』という命令が出ている。片道じゃ、仮に向こうで勝っても帰ってこられない。特攻というのは、向こう行って爆弾を落として成功しても帰ってこられない。そういうのが特攻なんだよ」

 特攻兵たちは、自分の乗る戦闘機の機内に、思い思いの品を積み込んでいました。

「いろんなお人形さんが飾ってあったり、写真が飾ってあった。つらかった。それが残っている。ほんとつらいよ。行く方はもちろん辛いけど、それを送る方も大変」

 終戦直前、三田村さんは、自らも出撃しようと、飛行艇に向かったといいます。それを見かけた上官から、思いがけない言葉をかけられました。

「准尉が『おい三田村!どこ行くんだ!』『死ぬのはいつでも死ねる』『これからの若いもの、日本をどうするんだ』と」

 上官の言葉が、その後の三田村さんの人生を大きく変えることになりました。

「子どもに過ぎたる宝はない。その宝物を大事にしなきゃならない」 「よく見えるだろ」

 戦後、お寺の本堂を子どもたちに開放したことから始まり、三田村さんの思いが込められた幼稚園が誕生しました。

 日本がまだ焼け野原だったころから、実家のお寺で始めた幼稚園で子どもたちの教育に尽力しました。

「昭和23年の12月」 「(Q.子どもたち何人いらっしゃったんですか?)75人。何しろ子どもは大変だったな」

 平和につながればと、寝る間を惜しんで、子どもたちに命の大切さを教えてきたといいます。

 三田村さんが、戦争をくり返さないために大切にしてきたこと。

「まず戦争をしない。自然、人、もの、虫、みんな命があって大事にしなきゃいけない。『輝かせ生命』かぐのみ幼稚園の建学の精神。二度と戦争をしないように、できないように」

 子どもたちに平和のバトンをつないでいくことが、死んでいった戦友たちへのせめてもの弔いになると、三田村さんは話します。

「准尉の言葉がいつまでも耳に残っている。だからこうしてやっている。みんな『戦争は絶対反対』と言って、1人でも2人でも3人でも多くの人にしゃべってほしい。戦争はしてはいけない、絶対」