木村緋紗子さんは88歳となった今も、各地で被爆体験の伝承に力を注いでいます。

 しかし原爆の投下、そして終戦から80年を迎えた今、これまでは抱いてこなかった焦りを感じ始めています。

 原爆の日に合わせて広島を訪れた木村さんの思いを取材しました。

 真夏の日差しが照り付ける、8月6日の広島。80年目の平和記念式典。

 木村緋紗子さん「やっぱり8月6日の8時15分っていうのは、やはり私にとっては一番嫌な時間じゃないでしょうかね。記憶を消すことはできないですね」 

 80年が経っても心の奥に焼き付いたあの日の光景と記憶は、消えることはありません。

 仙台市に住む被爆者・木村緋紗子さん、88歳。原爆の日に合わせ、1年ぶりに古里の広島に帰りました。

 木村緋紗子さん「父と母とおしゃべりしたいという気持ちで、とにかくうれしいだけです今は」

 広島市内に着くと、その足で市内中心部、家族との思い出が残るかつての自宅近くの公園で、語り部に臨みました。

 木村緋紗子さん「私の父がそこで医者を開業していたんです。私たちはまた別のところにいたんですね。母と私たち兄弟は別のところにいたんです」

 1945年8月6日午前8時15分。広島に落とされた一発の原子爆弾は、爆心地から2キロ以内の建物をほぼ焼き尽くしました。

 当時8歳だった木村さんは、爆心地からおよそ1.6キロの場所にあった祖父の家で被爆。父や祖父を含む8人の親族を失いました。開業医だった父・貞臣さん(当時42)は、往診から帰る途中、この公園の近くで被爆しました。

 木村緋紗子さん「『俺は無念でならぬ。子らを頼む』と言いながら亡くなっていったということを母から教えられ、この薬瓶の中に少しだけの骨を入れて母親が持ち帰ったという、本当に情けない、悲惨な状態で父親と対面したということで」 

 次の世代に同じ悲しい思いをさせたくない。父を近くに感じながら、木村さんは集まった人たちに強く語りかけました。

 語り部を聞いた人「周りの方が亡くなっているだとか、どのくらい辛かったんだろうなって。辛かったんだろうっていう気持ちがあふれてしまいました」

 木村緋紗子さん「やはりこの地に来て語り部をするということは、思いが違ってきていますね。やはり色々なことを思い出すんですよね、あの日のことを」

 木村さんには広島に帰る度、必ず訪れる場所があります。父と母が眠る墓で木村緋紗子さん「広島には家はありません。ですから、あるのはやはり墓しかないんです。でも、これがやはり私のよりどころだなと思ってここへ来ているんです」 

 2025年は両親に報告することがあります。2024年12月、木村さんが代表理事を務める「日本被団協」が、ノーベル平和賞を受賞。長年にわたる核兵器廃絶運動が、世界に認められたのです。

 木村緋紗子さん「ありがとうっていう言葉は聞けないですよね、もう。核兵器の使用が、今後世の中で起きないように私は頑張るしかないのかなということを父に誓いました」

 あの日から、80年目の、広島の朝。いつかはおとずれる、被爆者のいない世界。同じ過ちを繰り返さないために、多くの人が事実を知る必要があります。

 全国の被爆者の平均年齢は86歳を超えました。体験を語れる被爆者が少なくなっている今、88歳の木村さんもこれまで抱いてこなかった焦りを感じ始めています。

 木村緋紗子さん「もう少しでお迎えが来るって頃になって焦りが来ましたね。もう何年生きられるだろう。その間、本当に伝えてちゃんとなるかしらっていう思い。伝えなくちゃいけない。だったらどうしたらいいのかってことを考えますね」

 いまだ世界各地で繰り返される戦争。核なき世界は遠い夢なのか。木村さんは命ある限り、声を上げ続けていきます。

 木村緋紗子さん「戦争はしてはならない。再び被爆者を作るなってことは、私たちの今までやってきたことですから、それを絶対にあきらめないで亡くなるまで思い続けるということでやっておりますから」

 80年という歳月を経ても、語り部として立ち続ける木村さんの言葉には、時を超えて私たちの胸に響いてくるものがあると感じます。被爆者の方々が伝えてきた思いを、どう受け止め、未来へつなぐのか。私たちに問われています。

 木村さんが会長を務める宮城県原爆被害者の会では、16日から2日間、太白区文化センターで原爆パネル展を開催します。時間は、16日は午前9時から午後8時まで、17日は午前9時から午後6時までです。