原爆が投下されて80年。「黒い雨」を浴びた人たちによる被爆者認定を求める裁判は現在も続いています。長い年月を経てようやく認められた被爆者の思いとは。

 山口県岩国市の八百本規美さん。広島に原爆が投下された1945年、8月6日。

 当時5歳だった八百本さんは、広島市郊外の湯来町砂谷で暮らしていました。

八百本規美さん 「草刈りをしていたら雨が降りだしたから、とんで帰って」

 原爆が投下されたあと、広い範囲に放射性物質を含んだ「黒い雨」が降りました。終戦後、国は徒歩や自転車で聞き取り調査を行い、黒い雨が降った範囲を特定しました。

 八百本さんが住んでいたのは、爆心地からおよそ20キロ離れた山間部です。そのため、聞き取り調査が行われないまま黒い雨が降った範囲の外にされたのです。

 中学校を卒業後、岩国市に引っ越した八百本さん。「黒い雨」の被害を認められないまま高血圧や白内障に苦しむ日々が続きました。

八百本規美さん 「医者代がいるから(病院に)いくまいと思いました」

 八百本さんにはもう一つの苦しみがありました。

八百本規美さん 「この家にお嫁に来て、ここのお母さんが『原爆にあったっていうことは絶対口外しないでください』『奇形児が生まれたら困るから、そういうことを言わないでください』ものすごく言われました」

 2021年、状況を大きく変える判決が出ました。黒い雨を浴びながらも被爆者と認められなかった84人が裁判を起こし、全員が被爆者と認められたのです。

 判決によって「黒い雨」の被爆認定が緩和され、八百本さんが住んでいた地域も対象になりました。しかし、ここでも壁が立ちはだかります。

八百本規美さん 「岩国は山口県じゃから山口県で手続きするんよって言われて、市役所に電話して、黒い雨の件でどこに書類もらいに行ったらいいかと、『知りません』と言われて、転々と(電話を)代わられて、どこまでいったら黒い雨を知られるのかとげっそりしました」

 それでも時間はかかりましたが、黒い雨を浴びてから77年、ようやく被爆者と認められました。

八百本規美さん 「80歳を超えて、やっと被爆者健康手帳がもらえたことは、私は素晴らしいと思います」

 黒い雨を浴びた人たちのなかには、今も被爆認定を訴え続けている人がいます。被爆から80年、彼らが声をあげられる時間は残り少なくなっています。