第2次大戦中のイギリスで、日本軍の通信を解読するための機関が作られました。集められたのは名門大学で言語学などを学ぶ優秀な学生たちでした。
古いブリキの缶に入っているのは、手作りの漢字カード。とめや跳ねなどが正確に書かれています。
このカードの作者は、イギリス人のフィリップ・ベニスさん(享年71)。ケンブリッジ大学で言語学を学んでいた1944年、イギリス海軍に招集されました。
ベニスさんの任務は、軍艦への乗り組みや飛行機の操縦ではなく、敵国の言語「日本語」を速やかに修得することでした。
1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻で始まった第2次世界大戦。1941年12月、日本の参戦により戦場はアジア・太平洋にも拡大しました。
ブレッチリー・パーク トラスト トーマス・チーサム博士 「日本の参戦によりイギリスは大きな問題に直面しました」
日本軍の通信傍受などのため、日本語を理解する人員が必要となりましたが、戦前イギリスで日本語を話せた人は数百人程度。軍部は対応に迫られ、日本語習得の学校を急きょ設置することになりました。
1942年2月、イギリス軍特別諜報学校付属の日本語学校が開校しました。市内のホテルや住宅など、少なくとも5カ所が教室として使用されました。現在も残る建物に掲げられた史跡案内板には、「ジャパニーズ・スパイ・スクール」の文字が刻まれています。
「スパイ・スクール」に集められたのは、ラテン語や古代ギリシャ語などを学ぶ言語学専攻の学生。教授の推薦により特に優秀な学生が派遣され、ベニスさんもその中の一人でした。
トーマス・チーサム博士 「素早い上達の理由は学生をとても慎重に選抜したからです。オックスフォード大やケンブリッジ大からすでに高い言語能力を持つ人たちを選びました」
ここでは、日本の暗号や通信解読を専門とする人材の養成を目的として、会話などの授業は行わず、ひたすら文字を理解する授業が行われました。期間はわずか6カ月。
まず基本的な1200単語を身に着け、大本営発表や外交通信など実際の文書の翻訳を繰り返し、身に着ける訓練が行われました。その際、学生が自作したのが、漢字のフラッシュカードでした。
ベニスさんの妻 ダイアナ・ベニスさん(82) 「缶を開けると200枚ほどぎっしりとカードが入っていて、裏面に表の内容の説明がすべて手書きされていました。相当な手間だろうと思います。当時のプレッシャーは相当だったに違いありません」
45年11月の閉校までに、合わせて224人が学びました。
「スパイ・スクール」の卒業生の多くは、隣町にある「ブレッチリー・パーク」に配属されました。イギリス軍の諜報や暗号解読の拠点で、数学者のアラン・チューリングがドイツ軍の暗号機「エニグマ」を解読した場所としても知られる場所です。
トーマス・チーサム博士 「戦争末期、日本の重巡洋艦『羽黒』がマラッカ海峡で撃沈されました。これはブレッチリー・パークなどでの諜報(ちょうほう)の結果で、日本に残る大型艦の一つを撃沈する成果でした」
3交代制、12日間連続勤務で休みは2日という過酷な勤務に、体調を崩す人も多かったといいます。
トーマス・チーサム博士 「ブレッチリー・パークの全貌は1970年代まで完全に秘密でした。その後、数十年かけて日本語に関する作業などの詳細が判明しました」
戦後、高校の古典教師や校長を務めたベニスさん。秘密を守り、日本の暗号解読に携わったことは、妻のダイアナさんにも一切話さなかったといいます。
ダイアナ・ベニスさん 「彼の人生はすべて言語に捧げたものだったのに、(諜報活動で)それが突然止められたのは相当つらいことだったと思います」