東日本大震災後に過疎化が進む宮城県石巻市牡鹿地区で運営されている、被災者の交流サロンです。

 石巻市小渕浜にある被災者サロン、おらほの家を運営する本庄年さん(63)の1日は利用者を車で迎えに行くことから始まります。
 本庄年さん「楽しくわいわいと、いつものように変わらぬ日を送れたら良いですね」
 1人での移動が難しい70代から90代の利用者たちは、本庄さんの送迎が欠かせません。
 安部勝子さん「楽しみですね、おらほの家行くの。本当に楽しみ」

 おらほの家には地域住民が週に3回ほど集まり、交流しています。一緒に昼食を食べたり、談笑したりながら楽しい時間を過ごします。
 細谷かつみさん「いつも1人だから、本庄さんのところに来るのは良いですね、楽しみです。本庄さんの十八番のご飯だよね?このご飯ね」

 本庄さんは東日本大震災前、神奈川県で暮らしていましたが東北に友人が多くいたことから震災直後から被災地でボランティア活動を始めました。
 本庄年さん「やっぱり避難所を見た時でしょうかね。もうここは本当に日本なのかっていうか、とにかく怒ってる人と歩き回ってる人と座ってぼーっとしてる人と、本当に何とも言えない(光景)」

 長期的に被災者と関わりたいとの思いから当時、おらほの家を運営していた法人に登録して震災翌年の夏には牡鹿半島への移住を決めました。
 本庄年さん「関東で暮らしていると被災地とのギャップが非常につらくて、2011年の春とかこちらではまだまだ全然何をして良いのか分からず、皆つらい思いをしている時に、東京に戻ると花見をして宴会をしていて、僕的にはそれがちょっと何してんだろうなという思いがあって」

 その後、2016年に運営法人が撤退し本庄さんと残った職員が活動を続けてきましたが、職員は徐々に減り、現在は本庄さんが1人で運営を担い20人ほどの利用者を支えています。
 本庄年さん「ヒジキは持ち込みでこれもそうですけどこれはいただきもの、もうみんなのおかげで成り立っています」

 おらほの家で本庄さんの昼食づくりを手伝っている成田みきこさん(87)は、牡鹿地区の自宅で被災し高台への避難で難を逃れました。
 成田みきこさん「もう生きてるうち、ああいう目に遭いたくないね。思い出すのも嫌だもん」 

 12年前に夫を病気で亡くし現在は1人で暮らす成田さんにとって、おらほの家は人とつながれる大切な場所となっていてカレンダーに丸をつけて心待ちにしています。
 成田みきこさん「本庄さんは神様です。私拝んでいるの。おらほの家は生きがい、だって楽しいもの」

 おらほの家は、他の利用者たちにとっても心の支えです。
 細谷かつみさん(90)「姉が3人亡くなったね、震災で。津波で流されて車庫の中にいたり、流しにいたりして。やっぱり今まで1人でいたんですけれど、みんなと集まってそしてこういうふうにやってるのが楽しいです」
 富士原公子さん(82)「まだ見つかっていませんので主人がね。それもあるから余計、家にいると思い出す。15年も経っているんだけども、ここにいる時はできるだけ忘れて、皆さんと楽しく過ごしたいなと思っていますね」

 おらほの家がある牡鹿地区は、震災前は約4500人が暮らしていましたが現在は半数以下にまで減りました。過疎化が進む中、おらほの家には生活を支える側面もあります。1人での移動が難しい利用者たちは、サロンに来た時に近くの商店でまとめ買いをしています。
 富士原公子さん「冷蔵庫の中に何も無くなっちゃったんだもん野菜とか、きょう楽しみにしてたのだから。買い物する場所がここしかないから鮎川は。向こうにスーパーあるんだけど、ちょっと遠いの。バスで行くのは行くんだけど帰りのバスがない」

 地域住民にとってなくてはならない場所となっているおらほの家は2026年度、これまで運営費として活用してきた宮城県の助成金が縮小することが決まっています。
 今後は、利用者の参加費や民間の助成金なども使って運営していく予定ですが、本庄さん自身の収入に影響が及ぶ可能性があると言います。
 それでも本庄さんは、これからもおらほの家で牡鹿の被災者たちに寄り添い続けたいと話します。
 本庄年さん「気ままに集まれる場所かなとは思ってますし、そこを目指していますね。普段使い、特別な感じでなく自分の家のように過ごせる場所が良いかなと」