今年は、最初のムーミン小説が出版されてから80年となる節目の年です。ムーミン谷の誕生に隠された、知られざる背景に迫りました。
フィンランドで生まれ、世界中で愛されているムーミン。最初のムーミン小説が出版されてから今年で80年となるのを記念して、東京・六本木ではトーベとムーミン展が開催されています。
展覧会では、ムーミンやその仲間たちが描かれた250点以上の作品が展示されているほか、ムーミンの生みの親であるトーベ・ヤンソンが手掛けた絵画や風刺画なども見ることができます。
トーベの自画像です。その表情を見てみるととても穏やかです。トーベ・ヤンソンは1914年、フィンランドのヘルシンキで生まれました。父は彫刻家、母は挿絵画家という芸術一家で育ち、幼い頃から画家を目指すようになったといいます。この作品は20代前半に描いたもので、トーベは生涯にわたって自画像に取り組みました。
トーベが政治雑誌「ガルム」のために描いた風刺画の一つです。ドイツ南部の山荘に隠れている敗戦間近のヒトラーに、イースターの卵の形をした爆弾が降り注いでいます。
トーベは雑誌が廃刊になる1953年までの間に、およそ500点の挿絵と100点以上の表紙画を手掛けました。なぜトーベはこのような反戦風刺画を描いたのでしょうか。展覧会でメインキュレーターを務めたヘルシンキ市立美術館のヘリ・ハルニさんに伺いました。
「やはり第2次世界大戦の影響が非常に大きかったと思います。彼女の弟は戦争の最前線で戦っていましたし、父親も1918年のフィンランド内戦を含む2つの戦争に参加しました」
また、トーベ自身もヘルシンキで空襲を経験したといいます。
ヘリ・ハルニさん 「トーベはペンネームに隠れることなく、戦争の悲劇を率直に批判しました。彼女の反戦風刺画は戦時中の強い不安に向き合う手段になりました」
そんなトーベの強い反戦の思いが込められている風刺画。実はこの中に、ある生き物が隠されています。崖の上にいる小さな生き物。ムーミンの前身となるキャラクター、スノークです。このスノークがトーベの風刺画にたびたび登場するようになりました。
そして、第2次世界大戦の惨状に心を痛め、絵を描くことができなくなっていたトーベは戦争の辛い日々から逃れるため、ムーミン谷という架空の世界を作り出しました。
ヘリ・ハルニさん 「ヘルシンキを含む多くの都市が戦争に巻き込まれました。トーベはどこか平和的な場所を求めていました。例えばトンガの島に移住して、そこで芸術的な生活を送ることを計画していたほどです」 「(Q.ムーミンの物語にも、戦争の影響を感じられるところはあるのでしょうか?)はい、あります。特に『ムーミン谷の彗星(すいせい)』の中にその影響を見ることができると思います」
ムーミン谷の彗星は、ムーミン谷に迫り来る彗星の謎を解き明かすために旅に出たムーミンたちが、その道中で仲間たちと出会い、友情を深めながら危機に立ち向かうという物語です。第2次世界大戦中に書かれたこの物語は、トーベがヘルシンキで経験した空襲や防空壕(ごう)に逃げ込む人々の様子が反映されているといいます。
1954年には、イギリスの新聞で連載漫画がスタート。ムーミンは世界的に人気となりました。
その一方で、家を天職だと考えていたトーベは、フィンランド各地にある市庁舎や病院、保育園など公共施設の壁画も数多く手掛けました。
この作品もその一つで、小児病棟の壁画のコンペティションのために提出したスケッチです。幼い患者たちの不安を和らげるために、ムーミンの仲間たちが楽しそうに階段を駆け上がる姿が描かれています。
ヘリ・ハルニさん 「トーベは非常に才能のあるイラストレーターでした。絵の中で色を使う際にもその才能を感じます。また、彼女のユートピアへの憧れはムーミン谷の想像力豊かな世界と、公共施設に描かれた物語の両方に反映されています。彼女の絵の中のおとぎの世界は最高です」
平和を求めてトーベが生み出したムーミン谷は、80年経った今も世界中の人々を魅了し続けています。