太平洋戦争で2万人以上の日本人が亡くなったマーシャル諸島。終戦80年の2025年、父が戦死した島を息子が訪れました。足跡をたどると、餓死の実態が浮かび上がりました。

 佐藤勉さん「戦死って言葉だけですね、母から聞いたのは。あとは何も思い出ないですね」
 宮城県亘理町に住む佐藤勉さん(84)は7月、父親が眠るマーシャル諸島を訪れました。日本から約4500キロ、南太平洋に浮かぶマーシャル諸島の環礁の1つが、ウオッゼ島です。

マーシャル諸島ウオッゼ島

 サンゴ礁でできた小さな島には、太平洋戦争中に十字架状の滑走路が整備され、約3500人の日本兵が駐留しました。勉さんの父親、冨五郎さんは海軍の機関銃兵として島の守備に当たりました。

 穏やかな暮らしが広がる島には、至る場所に戦争の爪痕が残っています。滑走路近くに残る航空隊の指揮所は、現在は島民の住宅として使われています。
 佐藤勉さん「こんな撃たれたら大変だっちゃ。これ全部(銃で撃たれた跡)、よく持ちこたえたこと」

 冨五郎さんが到着して半年、マーシャル諸島の重要拠点クェゼリン島が陥落したためにウオッゼ島は孤立し、補給が寸断されます。
 「缶詰状態にされ減食に減食」
 直面したのは、飢えとの闘いでした。冨五郎さんは栄養失調に陥ります。
 「生きているのは不思議なくらいだ。茶わんの中に草や木の葉だけあるのみ。米が見えない」
 「きょうのおじやネズミが入った。味のいいこと日本一」

つづられた日記

 勉さんが向かったのは、ウオッゼ島から6キロほど離れた小島のエネヤ島です。冨五郎さんは亡くなる半年前から1カ月前まで、エネヤ島に配備されていました。食糧が尽き、いずれ命を落とすことを覚悟した冨五郎さんは、この地で家族への思いをつづっていました。
 「昨夜は写真を見た」「その為か、夢で子ども、妻を思い出して泣かされた」「勉君どうしたかな」「どんなに大きくなった事でしょう」
 佐藤勉さん「お父さんも海を見ながら、日本に帰りたいと思ったことあったんでしょうね。お父さん、家族はみんな元気です」

父親の「足跡」をたどる

 日記に添えられていた戦友の手紙には、冨五郎さんは警備隊の本部近くで埋葬されたと記載されています。日記を頼りに捜索すると、ジャングルの奥地に警備隊本部があったとされる場所が。
 佐藤勉さん「ここさ建物あったわけだ、ずーっと。80年、いやぁまいったね。ここが本部」

 この地で、冨五郎さんは最期をつづりました。
 「3月5日。昨日僕の誕生日であった。昨日から急に体が弱った。本日に至ってもう夕刻は歩けない程足がむくむなり。人生もこれまで」「餓死だ。食う物なし」

 体は限界を迎え、乱れた字でこう書き残します。
 「全く動けず苦しむ。日記書けない。これが遺書。昭和20年4月25日最後かな」
 翌日、冨五郎さんは亡くなりました。終戦直後、アメリカ軍がウオッゼ島で撮影した写真には、やせ細った日本兵の姿が記録されています。

 マーシャル諸島では、餓死を含め2万人以上の日本兵が命を落としました。冨五郎さんを含む戦没者の8割の遺骨が見つかっていません。
 戦後80年、勉さんは今も父親の帰りを待ち続けています。
 佐藤勉さん「父の遺骨一部分でも戻ってきたら、初めて戦争は終わったなと自分の心では思いますね戦争は誰のためにもならない。勝っても負けても誰の利益にもならない」