宮城県石巻市の渡波地区に、復興の様子を伝え続ける小さな新聞社があります。震災後に父親の後を継ぎ、記者になった男性がいます。

 石巻市渡波町。平塚宏行さん(54)は、牡鹿新聞社のたった1人の記者です。
 紙面のレイアウトを担当する妻の淳子さん(54)と2人で経営しています。
 平塚さんの父親、俊夫さんが1949年に創業した牡鹿新聞社は、70年以上にわたって週刊で新聞を発行し続け地域の情報を伝えています。

 元々は印刷を担当していた平塚さん。父の取材を手伝うようになり、震災後に記者になりました。
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「ハード面はもちろん、ここ10年位でいったん収まったわけじゃないですか。で、次は今度、人と人とのコミュニケーションであったり、つながりであったり、それが今後重要になってくると思うんですよ。笑顔であったり、喜びであったりっていうのを取材したいなって心掛けてます」

震災後記者に

 2011年3月11日、東日本大震災で牡鹿新聞社も津波に襲われ、パソコンや印刷機などが使えなくなりました。
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「潮水に浸かった機械だから、ああもう全部駄目だなって思って。きのうまでできてたことがあしたからはもう、ああできないんだなって」

 そのような時に、読者から生活情報を求める声が上がりました。
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「『弁当どこで配っているか分からないから新聞出さないのか』っていう話があって、必要にされているっていうのが分かったので、うん、じゃあやろうって」

 震災から半年後に新聞の発行を再開しました。記事にするのは、地域の復興の歩みです。
 読者「大体地元のことは牡鹿新聞があれば分かるので、渡波地区が津波で何も無くなった状態からここまで復興してきて、それが事細かにきちんと記事で出ているので」

復興の歩みを伝える

 この日、取材に訪れたのは、渡波地区で行われた石巻わんぱく相撲大会です。コロナ禍を経て4年ぶりに声出し応援が可能になりました。多くの人が見守る中、白熱した取組が繰り広げられました。
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「出場して良かったなって思うことってある?」
 子ども「賞状もらえたこと」
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「賞状もらったこと。きょう何回勝った?」
 子ども「2回負けて他勝ちました」
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「いっぱい勝ったんだ」
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「観客の声援の多さ、それに応える子どもたち、一生懸命相撲を取る子どもたちの表情が伝わるような記事にしたいなって思っています」
 【まわしを締めたわんぱく力士たちは「押し出し」や「うっちゃり」などの技で応戦、男子を土俵外に押しやった女子などが健闘、土俵を湧かせた】

 牡鹿新聞は、震災で失われた日常が戻りつつある姿を伝え続けています。自らも被災した平塚さんには忘れられない取材があります。
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「3月11日、女川町で(追悼式)やるじゃないですか。私は取材なんで、ただ単に献花台に献花して手を合わせる。でもその家族とかってなってくると(慰霊碑の)名前さするんだよね。その姿見ると泣けてきて結局取材にならないんですよ」
 震災で500人以上が亡くなった渡波地区。平塚さんは、遺族の悲しみとも向き合っています。

悲しみとも向き合う

 新聞が完成するのは毎週木曜日です。平塚さんは、4年前に亡くなった父親の俊夫さんに必ず完成を報告します。
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「新聞終わるとご苦労さんってことで一緒に毎週酒飲んでたので、『できたよ』って、『今週もちゃんと出したよ。発行したよ』っていうの知らせてから、酒飲むっていうのが日課」

 この日訪れたのは、女川町で開催されたおながわみなと祭りです。
 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「震災前の通常通りの内容のお祭りが復活したことをメインで、海上獅子舞で自分の地区の獅子舞が来た時に拍手してる、喜んでる姿とか(記事にしたい)」

 鼓笛隊などが街を練り歩くまちなかパレードが復活し、13年ぶりに震災前の本来の祭りに戻りました。
 【おながわみなと祭り まちが活気に包まれる】
 8月4日付の新聞には、この言葉とともに鼓笛隊と海上獅子舞の写真を載せました。

 牡鹿新聞記者平塚宏行さん「みんながみんな同じ思いを持っていると思うんですよ。同じ経験をした、つらい経験をした、それを踏まえて日常生活が戻ってきた。その笑っている顔とかを撮りたいな、撮りたいなっていうか伝えたいなって。細大漏らさず、そして継続する」