東京大空襲があった1945年3月10日。その同じ日に3機のB29爆撃機が蔵王連峰に墜落しました。なぜ、東京から遠く離れた宮城までやって来たのか。恩讐を超えて語り継ぐ戦争の記憶。

 蔵王連峰の南端に位置する標高1705メートルの不忘山。

 5月、そのふもとにある不忘平和記念公園で、式典が開かれました。日米から関係者が参列し、世界平和のために祈りを捧げました。

 アメリカ軍音楽隊「1945年3月10日、命を落とした34人のアメリカ兵に対して、深い敬意が示されました。この素晴らしい選択は、私たちは決して忘れてはいけません」

 公園に建てられた慰霊碑。そこに記されているのは、80年前、不忘山に墜落して亡くなった3機のB29の乗組員34人の名前です。

 不忘平和記念公園・髙橋敬理事長「私たちの先人が恩讐を超え人類はみな兄弟の心を持って設立した不忘の碑をこれからも忘れることなく全世界に平和の鐘が鳴り響くことを願います」

 80年前の3月10日。火の海となった東京。約10万人が犠牲になりました。

 その同じ日、東京から約300キロ離れた不忘山に、アメリカ軍のB29、3機が相次いで墜落しました。乗組員34人は全員死亡。

 今、仙台市歴史民俗資料館にその時を物語るものが展示されています。B29の機体の一部です。

 あの日のことを多くの住民が目撃していました。

 不忘山のふもと、宮城県七ヶ宿町の横川地区。

 高橋秀雄さん(2015年取材)「その晩だけは覚えているんですよ」

 当時18歳だった高橋秀雄さん。寝ていたところ、B29の爆音で目が覚め、飛行機が行った先、不忘山が真っ赤に染まるのを見たと言います。

 高橋秀雄さん(2015年取材)「前の山の上空を行って、墜落した不忘の山の方に左旋回した。(飛行機の)燃料が漏れて火ついて、とにかくすごい大火事。山の沢の全部火になった」

 なぜ、東京から遠く離れた不忘山にやって来たのか。

 20年前から墜落したB29について調べている元高校教師の加藤昭雄さん。いくつかの説があると言います。

 加藤昭雄さん「3月10日の空襲は、東京が第1目標。第2・第3の目標はないんですよ。東京だけが目標になっているわけです。東京空襲した飛行機が迷って来たんだというふうに最初は言われてました。あるいは、東京はもうできないから、臨機目標を定めて行こうとしたらその途中で迷ったこともありますよね」

 加藤さんの話や目撃証言を総合すると、こうです。

 1機目が現れたのは午前0時前後。七ヶ宿町を北へと進み、左に旋回した後、不忘山の山腹に墜落。

 その約1時間後、2機目が飛来。経路は1機目とほぼ同じ。しかし、別の尾根を越えられずに墜落しました。

 そして、更に1時間後。山の東側、白石市に現れた3機目はそのまま西へと進み、不忘山の裏手に墜落しました。

 3機は別々の所属で、一緒に来たわけではありませんでした。

 10年前、私たちは東京大空襲に参加したB29の元機関士を取材。こう証言しました。

 東京大空襲に参加したB29元機関士 エド・ゲッツさん「(爆撃したら)すぐにその場を出ようとした。しかし、熱風がすごくてね。方向性を失ってひっくり返る機体もいた」

 東京大空襲では、攻撃の精度を高めるため、機体の高度をそれまでの1万メートルから1500メートルまで下げるよう命令されていました。巻き上がる熱風に機体があおられ、その衝撃でレーダーが故障。方向感覚を失った
可能性があると指摘します。

 東京大空襲に参加したB29元機関士 エド・ゲッツさん「我々はレーダーだけで爆撃していたようなものだ。そして、レーダーが壊れることもあった。オペレーターもナビゲーターもクルーにいて、各自レーダースコープを持っていたが、どちらかが方角を間違ったのかもしれないし、熱風にあおられて北へ進んだのかもしれない。その状況に気付く前に、山に突入したのかもしれないね」

 時速約500キロ。高度1500メートルで飛行するB29。

方向感覚を失い、たどり着いた先が標高1705メートルの不忘山だったのか。

 更に、その日は吹雪の夜。

 加藤昭雄さん「大吹雪だったんですよ。下の方も吹雪だったらしいですからね。山のてっぺんはもっとひどかったんです。吹雪の夜の山ですから、もちろん視界もはっきりしませんし、それから気流の関係でいろんなことが起こったんじゃないかと。亡くなった飛行士の方たちにも親とか親戚とかそういった家族がいるわけですから、そういう人たちはこの真相を知らないでいると思うんですよね」

 あの日、不忘山で何があったのか。真実は今でも分かっていません。

 墜落したB29の機長の遺族 ジャック・コーズマイヤーさん「3月10日の作戦中に行方不明。飛行機が帰ってこなかった。それが我々家族が受け取ったすべてだ。とてもシンプル。ただ行方不明と」

 今年で終戦から80年。当時を知る人の多くが亡くなりました。「不忘平和記念公園」も亡くなった先代の理事長から息子である敬さんが後を継ぎました。

 平和への願い、次の世代へ。

 不忘平和記念公園・髙橋敬理事長「今後もこの地から世界平和につなげられるような、そういった活動をしながら皆さんに発信していければと思います」